研究方針

「ウェルビーイング」はどのように実現されるか?

近年、人の心を起点とした価値「ウェルビーイング(Wellbeing)」が注目されています。ウェルビーイングの概念自体は、ギリシャ哲学の時代から探求されている古いテーマですが、最近、工学やユーザーインタフェース設計、プロダクトデザイン、会社の経営理念や働き方、自治体や行政の施策といった、モノづくり・コトづくり・仕組みづくりを行う人たちが、ウェルビーイングについて興味を持ち始めたというのが、近年注目されるようになった一因だと考えられます。

「ウェルビーイング」という言葉は、誰もがその存在を信じることができても、その意味の輪郭は捉えがたいものかもしれません。しかし、「人権」「環境問題」といった言葉がそうであったように、その言葉が存在することで、新しい見方を提供し、それを良くするようにさまざまな働きかけが行えるようになります。例えば、自分にとってのウェルビーイングとは何だろうと自省したり、お互いのウェルビーイングに配慮して行動したり、誰もがウェルビーイングに働けるオフィスを目指して空間設計をしたり。つまり、ウェルビーイングとは、それをあるものとして考え、コミュニケーションを行い、行動することではじめて、その輪郭がくっきりとした形で現れるのです。私は、そのような視点から、ウェルビーイングが立ち現れる、考え方、コミュニケーション、枠組みを探求するとともに、そのためのツールを提供していきたいと考えています。

また、私の研究では、心理的かつ瞬間的ではない心の良い状態としてのウェルビーイング持続的ウェルビーイング:その人としていきいきと生きること)を取り扱います。ウェルビーイングは、⼯学的な視点から大まかに3つに分類されます。1つ⽬は「医学的ウェルビーイング」=病気や怪我がなく、⼼⾝の機能が不全でないこと。2つ⽬は「快楽的ウェルビーイング」=現在、良い気分であること。3つ⽬は「持続的ウェルビーイング」=⾃⼰の充足と周囲との調和がとれ、意義を感じて生きること。持続的ウェルビーイングは、快楽的ウェルビーイングより長い時間幅で、その⼈の状態を総合的に捉えます。例えば、⽬の前の課題に苦しんでいるときは快楽的ウェルビーイングが阻害されていますが、それは⼀時的なもので、課題を乗り越えて達成感や⾃⼰効⼒感が得られれば、持続的ウェルビーイングは充⾜されます。

自分がどのような時に「いきいき」としているか思い起こしてみると、とても個人的な理由によるところが多いことに気がつきます。つまり、持続的ウェルビーイングの要因は、それぞれ異なり、個別的であるということです。また、持続的ウェルビーイングの特徴は、「Flourish」(花開く・繁栄する・活躍する)という言葉によって表されることがあります。持続的ウェルビーイングは、花をどこかで摘んで持ってくるように、外部からもたらされるものではなく、自律的(ときに偶発的)な活動によって生み出されるものです。つまり、ウェルビーイングの実現を支援する時には、外から部屋の温度を制御するようなやり方ではなく、それぞれの人が、それぞれなりのウェルビーイングの実現方法をみずから見出せるような関係性、場や時間を用意するということなのです。

「わたしたちのウェルビーイング」研究全体図

次に、複数の人が集まった場でのウェルビーイングを考えてみましょう。ウェルビーイングは「わたし」一人でいる限り、それに良いも悪いもありません。しかし、複数の人が集まったときには、ある人のウェルビーイングを満たすことが、別の人のウェルビーイングを損なうということがあります。「わたしたちのウェルビーイング」は、これを調停する新しい価値観です。「わたし」の充足だけでなく、少しだけ大きな視点から、わたしとあなた、わたしと社会を「わたしたち」と捉え、その充足を同時に考えます。この「わたしたちのウェルビーイング」の実現には、価値観や自己観の更新や、周囲の人との信頼を醸成するつながりの触覚体験、さらには、「わたしたち」の状態をモニタリングする方法論が必要になります。私の研究では、これら「かんがえる」「つながる」「はかる」3つのツールを用い、様々ステークホルダーとともに取り組んでいます。

「わたしたちのウェルビーイング」研究全体図

3つのツール

「わたしたちのウェルビーイング」について取り組むための3つの道具(ツール)を紹介します。「わたしたち」や「触覚」といった概念や手法を理解するための“かんがえるツール”、「わたしたち」の基盤となる人と人のつながりを生み出す“つながるツール”、自身の「ウェルビーイング」について知り、他者と共有するための“はかる”ツールです。

かんがえるツール

本プロジェクトにおいて、「ウェルビーイング」、「わたしたち」、「触覚」といったものをどのように考えるのか、これまでの著作を取り上げながらまとめたものです。

わたしたちのウェルビーイング

欧米型の個人を対象とした「わたし」のウェルビーイングの価値観(Individualistic)からこぼれ落ちてしまいがちな、触れ合いや身体的な共感プロセス、共創的なナラティブの場といった観点を盛りこんだ東アジア的価値観(Collectivistic)に基づくウェルビーイングの考え方。これらは一人の人間のなかに共在し、ウェルビーイングの理解を補完しあう。『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』(BNN、2020、監修:渡邊淳司、ドミニク‧チェン)参照。

ポジティブコンピューティング

「Positive Computing」:インタフェース研究者のラファエル‧カルヴォ⽒とデザイナーのドリアン‧ピーターズ⽒が推進する研究分野。「コンピュータの誕⽣とともにひたすら⽣産性や効率性が追い求められた時代は終わり、これからはテクノロジーが、個⼈のウェルビーイングや社会全体の利益に貢献すべきだ」という⾔葉とともに、これからのものづくりやテクノロジーの考え⽅、その ための⽅法論が書かれています。邦訳は『ウェルビーイングの設計論』(BNN、2017、監訳:渡邊淳司、ドミニク‧チェン)。

触覚情報学

触覚は、触れたものの存在を確かめる感覚であると同時に、それに対して強い情動反応が引き起こされる感覚です。そして、誰もが持っている感覚であり、視覚障がいの⽅や聴覚障がいとの⽅との関わりにおいても重要な感覚です。つまり、様々な人とつながり、親しみや共感を生み出し、信頼を醸成するための基盤となる感覚なのです。近年は、誰でも触覚伝送による体験を実現できるために、振動信号の取り扱いや伝送の標準化に取り組んでいます。『情報を生み出す触覚の知性』(化学同人、2014、渡邊淳司)参照。

つながるツール

触覚は誰もが持つとともに、親密さや共感、信頼を醸成する感覚です。アナログ・デジタル関わらず「わたしたち」につながりをもたらすツールを紹介します。

触覚共有ボール

触覚共有ボール

チューブでつながった2つのボールです。ボールを握ると、反対側のボールが膨らんで、握る強さや速さによって、自分の盛り上がりや緊張を伝えることができます。

触覚伝話

触覚伝話

一方のテーブルを叩くと、遠隔にあるもう一方のテーブルが振動します。映像や音声も合わせたバージョンもあります。新しいコミュニケーションのあり方が生まれます。

リモートハイタッチ

リモートハイタッチ

二人が向き合い、手のひらを顔の高さで叩きあうことで喜びを分かち合うハイタッチを、直接的な身体接触を行うことなく実現しました。実際のスポーツシーンでも利用されました。

身体的翻訳

アスリートの動きを別の身体運動に変換(翻訳)し、視覚障がい者との新しいスポーツ観戦を実現したり、競技の本質を身体を通して理解するための方法論を開発しています。